年明けを迎えて間もなくすると、30年余り続いた平成の時代が終わりを告げます。

バブル崩壊と時を同じくして始まった平成の時代というのは、日本のガラパゴス化がますます深刻化してきた時代でした。
経済が急成長してきた昭和の時代を、さまよいながら持ち越されてきた諸矛盾が(真剣に努力し続けてきたにもかかわらず)解消されないまま次第にその問題点を顕わにしてきた、ということです。
結果として、世界地図の中での日本の競争力はさまざまな面で急速に後退してきている、といっても過言ではありません。
こうした諸矛盾の根底を織りなす日本的な体質の革新に私たちが手をこまねいている間に、急速に押し寄せたデジタル化の波によって社会や産業は見た目にも大きく変貌しました。

このような外見と内実とのズレを極限まで大きくしてきた平成という時代が、私たち日本人にとってどのような意味を持つ時代だったのか、をあらためて問い直し、歴史的に整理しておくことが必要です。

合理化優先で組織力が一気にパワーダウンした平成の時代 ~最大の改革テーマは“外見と内実のギャップ”をどう解消するか

昭和の時代にはさまざまな問題がありました。しかし、昭和のもっとも象徴的な側面といえば経済の高度成長です。このことを念頭に置き、昭和の時代の特色をひと言で言い表すとすれば、「前向きに生きることが前提の時代」ということができます。
元気な経済と人がシンクロして飛躍していく時代だったのです。

それに対して、低成長、グローバル化、デジタル革命、人口減という大変革期と時を同じくした平成の時代には、先行きの見えない不安と急変する環境の中で社会全体が余裕をなくしていきます。「傍観者的に現状を受け入れる“遠巻き姿勢”が当たり前の時代」になってしまったのです。このままで放置すると人も経済も活力が低下し、回復の糸口は簡単に見つかることはありません。

平成の時代を通じてバブル時代の負の遺産を解消すべく、さまざまな努力が試されてきました。多くの主要な企業では、産業構造の変化に対してバランスシートの健全化を最優先しました。徹底した経営の合理化を進めるのが時代の潮流となっていたからです。そうした経営方針と内部環境の急変によって、そこで働く社員の日常は根本的な変化を余儀なくされ、組織は時間的にも精神的にも余裕をなくし、疲弊していきます。
つまり、社員同士が互いに相談、協力し合う余裕も機会もなく孤立状態で仕事をする状態が日本企業独特の風景になってきたのです。

これは経営における組織の機能や能力が、表向きは何事もないかのように見えながら、実際には急激にパワーダウンしている状態です。
これに対し、職場コミュニケーションを回復するなどの施策が試みられていますが、実はそれだけでは解決できない問題がそこには潜んでいます。
この問題がいつまでたっても解決されず、さらにそれを深刻にしている背景には、より深いところに隠され見逃されている日本独自の社会規範の問題があるのです。

私たちにとってはごく自然である「上位の人間には黙って従う」ことなどを良しとしてきた日本社会の規範が、今の時代環境の中でどのような意味を日本的な経営にもたらしているのか。
これまで課題化されないままに引きずってきた日本独自のこうした体質は、経営の意思決定を遅らせるだけでなく、議論の積み重ねも阻害しているのです。経営からスピードが奪われているだけではなく、その質にも大きなダメージを与えているということです。

このような状態を克服することなくして、理想とする“自由な発想とダイナミックな連携で自在に動く”自律的な社員を発現させ、経営にポスト平成の新時代を呼び込むことは難しい、ということです。

平成の組織に巣食う問題は「傍観者」の増加 ~組織が持つ“序列の構造”が社会とのズレを生む

「上がどう思うか確認してみます」「決めるのは上司です」私たち日本人には江戸時代以来、長い歴史の中で無意識のうちに培ってきた強い序列意識が染みついていることを忘れることはできません。
当たり前になっている先輩とか後輩といった序列感覚を伴う日常語も、他の先進国にはまず見受けられないものです。そうした文化的背景の下、他の先進国の合理性にもとづく指示命令関係とは180度異なる、非合理そのものである“序列意識”で成り立っているのが日本的な「上司部下関係」なのです。

こうした状況の下に止め置かれた平成時代の日本的な社員のありようをひと言でいうなら、「不満はあるけど特に困ってはいない。でも昔のような愛社精神があるわけでもない」という状態です。
“抵抗することもない”といった遠巻き感覚がつくる見えない壁の中で、多くの社員は、会社を自分とは無縁の存在、と見るようになっています。一種の諦観、達観のような感覚を抱え、会社は会社、自分は自分と割り切っているのです。まさに、この“遠巻き感覚”が調査結果にも現れている「やる気のない社員」を生み出しているのです。

しかし同時に、日本の社会自体は民度が上がっているのも事実です。
50数年前の東京オリンピックの頃には汚れていた川も、ゴミがあふれていた街も見違えるようにきれいになりました。明らかに生活水準も社会的なモラルも高まって、日本という国の文化国家としてのレベルは上がってきています。
諸外国から称賛されるこうした肯定的な側面と、企業組織に蔓延している傍観者的な感覚が同居しているのが平成日本の実相です。

骨格が見えてきた未来社会に向けて、どんな準備をするのか ~組織に新たな文化と能力を育てるための再開発

このような矛盾を解消できないままに活力を減退させている日本を置き去りにして、グローバルな世界は変化し続けているのが現在です。

それに対して日本政府は、高度なデータ活用によって人や社会を支援していくSociety5.0という未来社会の姿を描き、第四次産業革命の取り組みをスタートさせています。その新産業コンセプトである〈コネクテッド・インダストリーズ(つながる産業)〉に向けた取り組みは、ロボットやAI、自動運転車をはじめ、すでにさまざまな分野で加速しています。

コネクテッド・インダストリーズがめざすのは、デジタル技術による多様なつながりによって、ものづくりの価値が人々の暮らしの課題解決や支援の価値に拡張されていくこと。この新たな価値創出力を持った産業を育てることで行き詰まる社会を変革していこう、という新しい産業の姿です。大きな産業構造の枠組み変化の中で、日本の強みである技術力や現場力をさらに高度に生かしていこうというわけです。
でも、そこには、柔軟に考え主体的に動く社員、境界を超えてつながり、チームで協働するための技術や能力が欠かせません。

たしかに我が国には、幅広い分野で培われてきたさまざまな意味での現場力と、それを有する人材、経験の蓄積が無形の知的資産として存在します。現場の人々の熱意や創意、試行錯誤や協力がもたらす価値とその創出プロセスは、他国にもAIにも決して真似のできないものです。

しかし、これまで述べたような「社員の意欲の低下」や、安定した社会であるがゆえに役員にまでも普通に見られる「傍観者的な姿勢」をもたらす日本独特の社会規範や慣習は、明らかに企業組織を変質させ、見えざる資産を劣化させていきます。
国の示すビジョンも、それに向けての努力も、この現状認識を抜きにして進められるとするなら、間違いなく、平成の時代に繰り返されてきた有名無実の空回りと同じ轍を踏むことになります。

というのも、多様な情報やつながりを資源として、人々の暮らしや社会を良くする新たな価値を模索していく新産業は、組織や常識の枠を超えた、志にもとづくチャレンジとイノベーションが前提です。新たな産業の足腰を支えるそうした人材が同時に育っていくことが条件なのです。

複雑であいまいな環境の中で“打開的に”物事を進める力 ~現実に寄り添う「デザイン思考系の能力」

かつて「設計どおり」が成り立った時代には、試行錯誤はあくまで脇役でしかなく、ロジカルに計画をつくり結果(答え)を導き出すことが主流でした。しかし、今のように環境が想定とはまったく違う方向に変化するのが当たり前で、新たな変数が次々に立ち現れてくる状況下では、精緻な予測や分析に頼りすぎることはむしろ柔軟な対応を妨げるリスクにもなりかねません。
そういう意味で、ポスト平成の新産業人材に最も必要とされているのは、物事を合理的、分析的に処理して論理的な答えを導き出すデータ系の能力ではないのです。

過去には表立って評価されていなかった能力、近年、光が当たるようになったデザイン思考系のクリエイティブな能力や、感応力や対応力の高いアナログな人の感覚など、遠巻き感覚の傍観者では発揮し得ない、めざすものに強い意志で向かおうとする能力が求められるようになっています。

環境変化が複雑で、先の見通しが予測しにくい条件の下では、何よりもまず、

◆「定義することすら難しい問題」を設定し、それに対する「解」を追い求めていくことができる
◆あいまいなものに対してその本質を探る「問い」を立ててやりとりすることで解明していく

打開的な力が必要です。

つまり、「はじめに想定した答えありき」ではなく、本質的な問いをめぐるやりとりを積み重ねて、周りに潜んでいる知恵を引き出し、仮説づくりに生かす。試行錯誤を効果的にやりつつ、プロセスの中での発見を通じて「予期していなかった答え」に近づいていく。こうした今までにないアプローチ、物事の進め方が拓いていく“主体性”と“意欲”を基盤とする能力です。

【デザイン思考系の当事者能力】

・あいまいな状況の中で「何が問題か」を定義し、仮説を設定する
・「問い」によって他者の多様な意見や考え、知恵を引き出す
・「共感的な対話」によって周囲の自発的な協力を引き出す
・周りにさまざまな質の高い「チーム」をつくり上げていく
・質の良い試行錯誤を繰り返して「予期せぬ答え」を追い求める

こうしたデザイン思考系の能力は、データ社会において最も大切な、「ユニークな問い」によって視野や視点を変え、さまざまな事象や情報の中からアイデアを得ていく能力でもあるのです。

この中でも、特に私たちが意図して育てる必要があるのが「問いをつくり出す能力」です。
というのも、この能力は、答えのはっきりしないことを問う「開かれた問い」、つまり意味とか価値を問い直すことを通じて鍛えられ養われていくものだからです。これは考えることの本質そのものとも言えるのですが、残念ながら、日本の学校教育ではそれとは真逆の「閉ざされた問い」が重視されています。私たち日本人の思考力は国際的にみてもかなりのハンディを負っています。

しかし、同時に私たちには、日本人が独自に持つ「共感力の高さ」という強みがあります。共感能力は、ユニークなアイデアを生み出すときに不可欠な意見や視点、情報の多様さをもたらす「信頼と協力の関係」を築くものです。信頼・協力の関係はそれだけではなく、答えの見えない試行錯誤の実行を支えてくれるチームを効果的に成り立たせる当事者としての能力でもあるのです。

ただし、その反面、この能力は周りへの忖度や同調圧力を生むなど負の効果をもたらすことにもなり、経営に今、最も必要とされているスピードを決定的に阻害する要因にもなっているのです。

今まで述べてきた経営のスピードの問題、傍観者的な姿勢を自覚し改める問題など、私たちが抱える本質的な諸矛盾を解決する役割を果たしうるのが、実は「質の高いチームビルディング」です。そして、それを広げるときに核となるのが「経営のチームビルディング」なのです。
というのも「経営のチームレベル」が上がれば、経営全体に質の高いチームビルディングを展開できる環境が準備されるからです。

こうして眺めていくと、ポスト平成の時代に必要とされている新産業人材に求められるのは、議論を積み重ね、その質を高める、まさにチームビルディングの能力なのです。

私たちは30年前、バブル崩壊後の新しい時代と経営を前提に、当時としては異色のデザイン思想にもとづく改革(日本的なチームビルディング)の方法論を構築してきました。その改革を通じて育った人たちの多くは、転換期の経営環境の中でも遺憾なく力を発揮し、革新の体現者としての遺伝子を今に伝えています。
これからさらに、組織に伝承してきたその能力が本領を発揮する時代になることを確信しています。