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建前や形式を優先する組織の実態

世の中には、事実よりも建前や形式を優先しがちな体質に支配されている組織がたくさんあります。そうした組織の中では、事実にもとづいて深く考え抜く姿勢を持っていたり、一歩踏み出す力を持っている人間は、必ずといってよいほど、中身のない形式にその行く手を阻まれることになるでしょう。事実を、見てみないふりをしようという建前の世界にも足をすくわれます。

つまり、建前や形式を優先する組織では、社会人基礎力というのは単なるきれいごととしてしか存在しえない。そのため、結局は絵に描いた餅になってしまうのです。

だからといって、こうした社会人基礎力そのものに意味がない、ということではありません。こういう能力は間違いなく、今の日本に欠けていて、そして、社会のあらゆる場面で最も必要とされている基礎的能力なのです。

考えずに仕事をさばく

たいていの人は、仕事の中で経験を積むにしたがって「深く考える」ということをしなくなっていきます。そして、ただ仕事を機械的にさばくようになっていくのです。この傾向は、周りからの協力を期待しえないと感じているとき、つまりチームで働くことができなくなっているときには倍化されます。しかし、そんな状態であっても何とか仕事は進むし、とりあえずは、すぐに問題が起こるわけでもありません。

多くの会社で頻繁に目にするこうした事実は、はたしてどういうことを意味しているのでしょう。

「深く考えて仕事をしない」ということは、実は、会社の中で起こっているさまざまな事態の根底に横たわっている問題だ、ということです。考えずにさばくのですから、目の前に課題がたくさんある中で、とりあえず手をつけやすいところから手をつける、というのがごく当たり前の習慣になっていきます。

つまり、面倒な展開が予想されそうなことは本能的に回避したほうが良い、というセンサーが働いてしまうのです。

心理学の実験で有名な、仕切られた水槽のガラス板をはずされたときにエサを捕りに行かなくなってしまうカマスの行動のような「学習性無力症」という症状がまさにぴったり、といった風景が生まれてしまうのです。

「主体的に考える」「チームとして協力し合う」

手をつけやすいところから手をつける、ということ自体は別におかしなことではありません。でも、「面倒そうなことは自分の責任外だ」という理由で、結局、「大事であるがゆえに手間がかかること」に誰も手をつけなくなってしまうことが問題なのです。それでは、大切な問題が棚ざらしになってしまうからです。

これは、人というものが漫然と生きてしまうと楽なほうに流されていく存在であり、意識して努力を続けないかぎり、経験を積めば積むほど深く考えて仕事をすることができなくなっていく、ということから出てきている問題です。

つまり、意識して努力をしなければ深く考えて仕事はできなくなっている今だからこそ、人が人としての尊厳を保って仕事をするために、「主体的に考える(当事者になって一歩踏み出す)」「チームとして協力し合う」という社会人基礎力というものを自覚的にとらえ直す必要性がある、ということなのです。