偉大な芸術家は「過去の自分」を超えていく

西洋音楽史上、最も有名な作曲家の一人であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年-1827年)は、その音楽に捧げた生涯において、常にみずからの創作を進化/深化させてきたことが知られています。

ベートーヴェンの作品は、大きく初期・中期・後期の3つに区分されます。
初期の作品は、先輩であるハイドンやモーツァルトの影響が残る、明るく快活な作品が多いのが特徴です。中期の作品には「英雄」「運命」「田園」など、傑作とされる彼のもっとも有名な作品群が含まれます。この時期の作品は、徐々に耳が聞こえなくなるという自身の過酷な運命に挑むかのような、強靭な表現と大胆で革新的な作曲技法が特徴です。

そして、後期の作品群はというと、非常に難解であることで知られています。
晩年のベートーヴェンは、よく人から「君はなぜ、初期の作品のような楽しくて、わかりやすい曲をつくらないのか」と苦言を呈されたそうです。
事実、それらの作品は彼の死後しばらくの間、世間にはまったく理解されないままだったそうですが、現在では前人未到の深遠な作品群として高く評価されています。

近代のロシアの作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882年-1971年)は、その生涯で何度も作風を変えていったことで有名です。彼は評論家などから「カメレオン」とも揶揄されましたが、大ヒットした「火の鳥」など初期作品のスタイルの自己模倣に甘んじず、次々と新しい作風に挑んできました。
今では、その創造的姿勢こそが高く評価されて、20世紀を代表する作曲家という確固たる地位を得ています。

ベートーヴェンやストラヴィンスキーに限らず、偉大な作曲家は、自己模倣のジレンマを克服し、つねに新しい境地やスタイルを求め続けてきました。

音楽であれ、造形や演劇であれ、並の芸術家の中には、自己模倣のジレンマに陥ってしまう人が少なくありません。キャリアの初期にヒットした作品の二番煎じ、三番煎じのようなスタイルの作品をワンパターンで量産し続けるだけ、ということはよくあります。

自己模倣に陥る芸術家の心理とは

私もパラレルキャリアは作曲家のはしくれですので、自分の創作の経験から考えた時に、このような自己模倣という現象が起きる心理はよく理解できます。

なんといっても、新しい技法やスタイル、表現における新境地を開拓するためには、まずその強い意志と、長期間にわたって創造の模索を続ける非常に大きな精神的エネルギー(生みの苦しみ)が必要です。
かといって、新境地の開拓が成功する保証はどこにもありません。これまでのキャリアにおける成功を台無しにしてしまうリスクもあります。

過去に成功した作品は、すでに評価が定着しているだけではなく、世間にはファンも存在し、同様のスタイルでの新作を楽しみにしています。そういうファンの期待をある意味では裏切って、自分の可能性を試すための新境地・新スタイルを模索することは、労多くして成功する確率は少ない、ハイリスク・ハイリターンの賭けのように思えるのです。

当面の社会的な成功という観点からは、自己模倣にもメリットがあります。
過去の成功作と似た作品を書けば、喜んでくれる人はたくさんいますし、そういう既定路線を行くことで経済的・社会的な成功を手に入れやすくなります。
何よりもヒットパターンの踏襲は、先の見えない創造の苦しみを味わわずに済みますので、とても楽でコスパが良いのです。

その一方で、芸術家の心の内としては、自己模倣による創作を惰性的に続けることによって、自分自身に対する非常にみじめな感覚をおぼえます。
すでに自分の創造力を信じられなくなっており、仮に自覚がないとしても、芸術家としての自分を自身が裏切ってしまっていることを心の底で感じるからです。

とはいえ、人の創造力も無限ではありません。ベートーヴェンのような無尽蔵とも思える創造力を持った天才であればいざ知らず、比較的凡才である芸術家は、このような葛藤と日々格闘せざるを得ないのが現実でもあります。

これからのビジネスには「創造のための能力開発」が必要

ここまで芸術家と自己模倣のジレンマについての話をしてきましたが、これは現代のビジネスにとっても非常に示唆に富んだ話だと思っています。
今日ではビジネスにおいても、既成概念にとらわれない想像力豊かな「アート思考が必要」といわれるように、創造性こそが新価値創造のカギだからです。

新たな表現の世界を開拓していくことが使命の芸術家でさえ、自己模倣のジレンマが宿命的な問題だとすると、ビジネスの世界に身を置く人たちが創造性を発揮し続けることのハードルは、さらに高いものといえます。それが既成概念にとらわれない、まだ世の中にはない新しさを求める創造ならば、なおさらでしょう。

もちろん、ビジネスの世界では「自己模倣」的なアプローチも重要です。すなわち過去の成功体験を分析し、論理的な思考を通して、その成功パターンを拡大再生産していくという戦略も存在します。このようなアプローチは「持続的イノベーション(従来商品の改善・改良)」として、多くの企業が日々取り組んでいます。

しかし、クレイトン・クリステンセン教授が「イノベーションのジレンマ」において指摘したように、「持続的イノベーション」に適応しすぎてしまうと、「破壊的イノベーション(まったく新しい価値を生み出す)」を起こす企業の能力は育たなくなります。

つまり、自己模倣的なアプローチを進めていくための能力は、すでに多くの企業や人材が獲得していますが、自己模倣を超えて、まったく新しい価値を生み出すための能力の開発については立ち遅れているのが日本企業の実情なのです。

次回は、「自己模倣のジレンマ」を乗り越えて創造に取り組むために必要な能力、「ネガティブ・ケイパビリティ」を取り上げていきます。

(後編につづく)