そして、この学習に欠かせないのが、昭和の組織が持っていた、人の成長を見守り助けるマインドとプロセスを持つ文化なのです。

「学習する組織」に垣間見える日本はどこへ?

私は前職で組織開発の仕事に関わり始めた1990年代の半ば頃、ピーター・センゲの著書で「学習する組織(Learning Organization)」に出会いました。その中には、複雑に変化する時代を前提にしたシステム的なものの見方や、古典物理学では説明のつかない物質・エネルギーの不思議なふるまいに注目した量子論のような内容も含まれており、その新しい世界観に魅了されたのを覚えています。

その後、私は転職したスコラ・コンサルトで偶然にも「学習する組織」に出会います。スコラ・コンサルトは2003年、2004年に『フィールドブック 学習する組織』シリーズの2冊を監訳し、私も編集チームの一人として関わりました。この本は大作なのですが、どうも日本では組織開発(OD)の関係者以外にはあまり関心を持たれなかった印象があります。
結局、「学習する組織」の概念は長い間、日本企業には受け入れられませんでした。

2008年にセンゲ氏が初めて日本を訪れた時のこと。イベントの控室で少しだけ話をする機会があったのですが、彼が私たちに最初に投げかけたのは「なぜ日本では『学習する組織』への関心が高まらないのですか?」という問いでした。
欧米では、経営論のトレンドになるほど大ヒットしたコンセプトだったのですから無理もありません。最初の日本語版が出版されてから、すでに10数年以上が経っていました。

日本と違って欧米企業では、個人のパフォーマンスの最大化がビジネス成功のカギであり、戦力としての個人には仕事のスキルアップが最重視されます。「学習する組織」の中には、「仕事を通じて人が人間的に成長していく」という学びの要素があり、この考え方が当時の欧米社会にとっては新鮮だったのかもしれません。
私のような昭和の時代から日本企業で働いてきた人間にとって、会社で働きながら個人が人間的にも成長する、という視点は特に目新しいわけではなく、身近に馴染んできた当たり前の感覚でしたが。

企業経営の中心に「人間」を据える視点は、日本が経済絶頂期だった1980年代に欧米が取り組んだ“日本企業の強み”の研究によってもたらされています。また日本から発信された「人本主義」(伊丹敬之/1986)や「知識創造企業」(野中郁次郎/1995)は、北欧企業群が新たな経営の流れをつくった知的資本経営をはじめ、その後の欧米企業の経営にも大きな影響を与えています。
もともと日本には「人は資本」という考えを持つ長寿企業が珍しくありません。
人の成長とチームワークを大事にする、といった日本の経営では当たり前の要素には、時代に合わせてその価値が見直されていないだけで“古くて新しいもの”がけっこうあるのです。

しかし、「学習する組織」が世界的にヒットしていた頃の日本は、皮肉にも“日本的経営の限界”に直面していました。
日本では、90年代の初めにバブル崩壊が起こり、2000年代の初めは経済再生に向けた構造改革の真っ最中です。企業といえば、バブルの後遺症や景気後退の不安を抱え、守りの経営に徹してバランスシートを健全化するのに手いっぱいの時期でもありました。業績悪化によるコスト削減に伴い、成果主義が広まっていくのもこの頃です。人も組織も学習どころではなかったのでしょう。

昭和の職場に根づいていた「人を育てる文化」

私が新卒入社で企業に入ったのは1988年、昭和が終わる頃です。そこで私は先輩や上司からいろんなことを教わります。
当時の日本の会社には、新人が仕事を覚えてこなせるようになるだけでは一人前ではない、“仕事を通じて人として成長する”ことが同じくらい大事だ、という気風がありました。

入社して1年がたった頃のこと、営業成績が振るわなかった私に直属の上司だった課長はこう言いました。「数字はいいから、お前は同期のメンバーをまとめろ」
課長は、目の前の結果を出すことよりも、私がもっとリーダーシップを発揮できる人間になるようにと期待していたのです。
また、ある先輩は、スランプに陥って苦しんでいた私にこう言います。
「お前、壁をどうにかしてうまく乗り越えようとしてるんじゃないか。もっとその壁が何なのかを考えろ」と。冷静に俯瞰して自分を見つめることを教えてくれました。そして私が2年目になると、一定数入ってくる新入社員を迎える職場で先輩としてどうふるまうのかを課題として与えてくる、という具合です。

あくまで私の体験ではありますが、当時は日々の仕事をする中に、単なる仕事のスキルを高めるだけではなく、人との対話を通じて自分を見つめる、人間関係を結ぶ、参加する、視野を広げる、協力するなど、人として成長するための要素が当たり前のように溶け込んでいたと思うのです。
それが、もし一人前の営業マンにするために「もっと成績を上げる方法を考えろ!」という指導ばかりだとしたら、早くに私は潰れていたでしょう。私という人間を見て、いい部分で伸びる方向へと導いてくれる上司や先輩には、安心できる人としての温かさがあったのです。

ジレンマの中で抜け落ちていく本当に大事なテーマとプロセス

昭和の日本企業の職場には、社員が単に仕事のスキルを向上するだけではなく、“人間として一人前に成長する”ための要素が自然に備わっていました。
しかし、経済や社会が激変し、経営環境が複雑になってくると、企業にとっての“人の見方や関わり方”は課題や目的に応じて多面的になります。そこには当然矛盾が生じ、企業内の人材育成や成長支援は“一方通行の形式的なもの”に収斂していきます。

バブル崩壊後は過剰雇用を解消するリストラが必須になり、長引く不況の中で“人”を人件費とみなして調整を行なう人員削減が続きました。その背後では1995年をピークに日本の生産年齢人口が減り始め、企業は長期的な人材の確保や育成を課題にしつつ、現在は直面する危機的な人手不足への対応を迫られています。その間には、想定外のコロナ禍によって「職場」が実体を失ってしまい、組織運営や雇用形態にまさかの大変化が起こりました。物理的な職場の解体は、メンバーの情報や関係性を寸断してしまい、それを結びつける器としてのチームビルディングが新たな課題になっています。

こうして新たな課題がどんどん出てくる時代になると、目先のさまざまな対応策や手段に振り回されて、職場や仕事の現場で行なう“人との関係を通じた学びと成長支援”のようなプロセス重視の関わりは、どうしても後回しになりがちです。しかし、変化の激しい時代になるほど、環境への対応と持続性を支える「人と組織の学習」は重要なテーマになっていきます。

そこで大切なのは、これからの経営に必要な人間観、「人」への信頼でしょう。それがなければ、かつて共同体組織の時代に職場が持っていた「一人にしない」「個別に人の面倒を見る」「成長段階を継続的に見守る」といった人の学びと成長を支えるマインドやプロセスは旧時代の遺物、あるいは不要な手間として削ぎ落されていくのが宿命なのです。

変化の時代に必要な「新陳代謝のための学習(アンラーニング)」

「学習する組織」では、「アンラーニング」つまり“これまで身につけてきたものを意識的に忘れること”を学習と言っています。これは単に社員が新たに求められる仕事に必要な知識・技術やスキルを習得することだけではありません。企業が変化に適応して持続するために、組織の古い価値観や既成概念、やり方を手放すことまでも含んでいます。
まさに、それは古いものを壊しては新しいものをつくり続ける新陳代謝であり、生きることそのものといえるでしょう。

残念ながら、人と組織のアンラーニングはテクノロジーやツールなどの手段では代替できません。また強制して機械的に速成でやることもできません。その学習を前進させるのは、人の内発的な動機と成長の喜びというきわめて人間的な要素です。その不確かさや非合理さを受け容れて人の変化を待つことができるか。そこには確かな人間観と「人」への信頼が必要なのです。

これからますます不確実さ、複雑さを増していく環境の中で企業が持続していくためには、つねに現状を問い直して、社会に役立つ新しいものを創造し、変化や未知のものに対しても柔軟でなければなりません。よくよく考えてみると、これは実行主体となる人間が有する特性そのものです。

人は学ぶことを通じて変化・成長し、人と協力することで多様な問題に自在に対応することができる潜在力を持っています。この可能性を信じることが、それを引き出し育てる余地となる“時間と機会とプロセス”を大事にしていく強い意志へとつながっていくのです。

「成果のための組織」から「成長のための器」へ

私が初めて「学習する組織」に出会ってから30年がたちました。
時代はVUCAへ、デジタル社会へ、新日常へと驚くほどに変貌し、企業が表に掲げるステートメントや方針は挑戦志向の強いものになりました。しかし、内側の世界はいまだに「失われた30年」、組織から「学びと成長のプロセス」が失われてきた30年です。

今日の企業は、内外のさまざまな問題で経営環境が悪化し、対応すべき難課題が山積しています。時間をかけて人を育てる余裕がなくなり、短期的成果や効率がより重視される傾向が強まっています。AIをはじめ省人・省力化に寄与する手段・ツールが次々と登場し、すぐに結果を出せる手段が多様になっていることも一因でしょう。

それと引き替えに、かつて植物を育てるように人の成長を見守り、手をかけてきた余裕、自分に対する問い直し、やりながら考える試行錯誤や切磋琢磨を通じて人間を磨いてきた相互のありようなどが職場からどんどん消えていきます。今日、新陳代謝に必要な“学びと成長の余地”を意図的に確保できている企業はそれほど多くはないでしょう。

昭和の日本企業は、共同体的な文化の中で培われた人のつながりが土台となり、一丸となって結果を出すためのパワーを利かせて成長してきました。しかし現代は、若い世代の価値観の変化や働き方の多様化などで会社への忠誠心やパワーの影響力が弱くなり、人の自然な結びつき、互いへの関心も薄くなっています。
そのことで危惧されるのは、「人は人を通して磨かれていく」という成長のための相互性が弱まっていくことです。組織学習には、人間関係は“面倒なもの”ではない、“人を成長させるもの”“大きな喜びをもたらすもの”というポジティブな感覚が欠かせません。

業務の現場でも、人の状態を見ながら相談や対話をする手間ひまが省かれてしまうと、社員は「黙って言われたことだけをやる」受動的な姿勢になり、エンゲージメントがどんどん低下してしまうのです。

この先の日本企業は、組織を単なる「成果を上げるための機能」にとどめず、多様な個性や能力を持つ人々が参加し、会社も個人の人生も社会も良くしていくことに通じる「成長のための器」へと、意味づけを変えていくことが必要です。
業績という目に見える成果を追求するばかりではなく、そこで働く人が仕事を通じて人間的に成長していくプロセスを“目に見えない成果”として大事にする。そういうあり方にシフトすることが、日本企業の大事な忘れ物を取り戻すことではないかと思っています。