地域で何かの活動を続けることは、思っているより、ずっと難しい。
賑わうイベントや温かいコミュニティの写真がSNSに溢れかえる一方で、その裏側では、誰かが燃え尽き、誰かが静かに離れ、誰かが「もうやめようか」と思いながら続けている。
企業や行政の組織なら、計画や目標、体制や仕組みがある。上司や同僚に相談できる。評価がある。しかし、多様な個人が発起して地場でオープンに進めていく諸活動には、そういうものがない。あるのは、それぞれの意志と、もろい人間関係と、いつ消えるかわからない熱量だけだ。

この“人だのみの脆弱さ”を、地域社会が持つ「課題」と呼ぶのは簡単だ。しかし私は最近、別の見方をするようになった。このカオスこそが、地域の本質かもしれない、と。

組織の論理で、地域を見ようとするワナ

地域活動に関わる人たちを観察していると、あるパターンに気づく。行政や企業の側から地域に入ってきた人ほど、最初に「仕組みをつくろう」とする。
趣意書を作成し、役割分担を決め、目標を設定し、PDCAを回そうとする。組織の論理で、地域の活動を管理しようとする傾向が目立つのだ。

そうなる気持ちはわかる。カオスは不安だ。誰が何をやっているのかわからない、決定権がどこにあるのかわからない、次のミーティングに誰が来るのかもわからない。そういう状態に慣れていない人間にとって、地域は「無秩序で機能していない組織」のように見える。
しかし、そこにワナがある。

自治体としての括りはあるものの、地域は“組織”ではない。ミッションを共有して集まった集団でも、雇用契約で結ばれた集団でもない。個々が、それぞれの動機で、自分のペースで活動している。その前提を無視して組織の論理を持ち込むと、最初は形として整っていくかに見えても、やがて人が離れていく。
「なんか窮屈になった」「楽しくなくなった」という言葉とともに。

カオスの実態――属人性、権限の偏り、動機の揺れ

正直なところ、地域活動の現場は、かなり混乱している。
まず、活動のほとんどが属人的だ。
たとえば、一つの活動は、ある人が10年かけて築いた人間関係と信頼の上に成り立っている。だから、その人が抜けると、人と一緒に活動も丸ごと消える。
当然、組織なら「属人化を排除せよ」となるだろう。
しかし、地域では属人性こそが活動の源泉だったりする。“その人”だから信頼される、人が集まる。それを仕組みに置き換えた瞬間、何か大切なものが抜け落ちる。

次に、権限の二重構造がある。
地域では、表向きのリーダーと、実質的な影響力を持つ人がしばしば一致しない。長年その地域にいる人、顔が広い人、声の大きい人などが、意図せず場を支配してしまうことがあり、新しく入ってきた人が意見を言えない、若い人が動けない。これは地域の共同体社会が持つ閉鎖性の問題でもあるが、構造的に避けにくい側面もある。

そして何より、動機が揺れる
地域活動に給料はない。評価制度もない。それを続ける理由は、常に自分の内側から調達しなければならない。ところが、その内なる声は、経済や環境や体調や人間関係によって驚くほど簡単に変わる。昨日まで「これが自分の使命だ」と言っていた人が、今日は「なぜやっているのかわからなくなった」と言う。それが地域活動の正直な姿だ。

それでも、「本音」はつながり方を変える

このように曖昧で混沌とした地域の中で、私はつながりの手がかりを求めて、気楽に本音で本気の話をする対話(オフサイトミーティング)をやってみた。私たちが組織風土改革の手法として使ってきたその場を、地域というまったく異なる文脈に持ち込んだのだ。

具体的には、長崎で「地域社会風土改革」というトライアルを行なった。
「長崎を良くしたい」という想いを持つ人たちが集まり、立場を超えて対話をすることを通じて、“新たな地域社会のあり方”をともに見いだすことが目的だ。

呼びかけ人になったのは、もともと長崎市でブックカフェを営んでいたKさん。地域で何かの取り組みをしている、あるいは支援している人たちに声をかけ、大学教員、県庁職員、幼稚園経営者、県教育庁職員(元地銀)、書店経営者、映画祭実行委員会メンバーなど、肩書きも立場もバラバラな7名が集まった。

事前には、個別にWebミーティングで話をし、一人ひとりの問題意識や想いを丁寧に聞き取ったうえで参加を呼びかけた。
参加者に共通していたのは、すでにそれぞれの持ち場で何らかの地域活動をしているという点と、「立場や肩書きを超えて本音で話せる場」への期待だった。

企業や公共の組織と違って、参加者には共通の帰属先も目的も規範もない。集まる理由も人によって異なる。そんな集まりの場で、組織向けの手法が機能するのか?

ところが、予想外のことが起きた。
オフサイトミーティングには、「ジブンガタリ」と呼ぶ入口のプロセスがある。整理した内容ではなく、その場で感覚的に湧き出てくる自分の話を自分の言葉で語り、他者がただ受け止める時間だ。

ある参加者の女性が、これまで人にはあまり話してこなかった10代の頃の苦い経験、周りの人との違いに悩んだこと、そのために感じてきた居場所のなさ、孤独について話し始めた。話しながら、涙がこぼれた。場は静まり返る。しかし、それは気まずい沈黙ではなく、全員がその言葉をしっかりと受け取っている、そういう静けさだった。 話し終えたあと、彼女はこう言った。「だから私は今、孤独な人の支援をしているんだ、と気づきました」と。

組織に属さないバラバラな個人の集まりには、守るべき立場や役割、常識などの縛りがない。最初からそれが外れた、しがらみのない関係だ。だからこそ、「伝えたい自分」として、ずっと重荷になっていた経験を気持ちのままに話すことができたのかもしれない。
何の共通性もない無秩序な集まりは、むしろ本音が出やすい場だったのである。

次のフェーズでは、ジブンガタリで語られた一人ひとりの地域への思い、活動の動機などをキーワードで整理してみる。すると、「つながり」「知的探求」「共感と理解」といったメンバーに共通のテーマが見えてきた。

属性も立場も違う7人が、実は同じ地域で同じようなことを大切にして活動している。その気づきを受けて、ある参加者から、「一見まったく違う活動をしている人同士が、実は行動原理や目指しているものは同じだと気づけるような時間を持ちたい」という提案があった。

価値観という軸で関係を考えていけば、今まで見えなかった地域の仲間が見つかり、一緒にやろうと思える何かが始まるかもしれない。そんな出会いとつながりへの期待、場のイメージが生まれている気がした。事実、その後に連携が始まった人たちもいる。

結果からプロセスへ ―― ゆらぎながらも続ける

地域で活動する人たちの「なぜ」を聞き続けていると、一つのパターンが見えてくる。それは、動機の重心が「結果からプロセスへ」移っていく、という変化だ。

多くの場合、何かを始めたばかりの人は、まず「○○がほしい」と、スキル、人脈、承認、実績など手に入れたいものを口にする。活動の意味を外側からの評価に置いている、これは「結果重視」のリザルトパラダイムとでも呼ぶべき価値判断の基準だ。結果が出れば続けるし、出なければやめる。動機が外側からの評価にあるから、条件が変われば結果とともに動機も消える。

しかし続けていくうちに、いろんな目に遭い、いろんな見方の人に会い、何かが変わる。結果だけではなく、活動そのものの中に意味を見いだすようになる。うまくいかなくて評価されなくても、それでも楽しいその時間が、自分にとって大切だと感じる。価値の置きどころが変わり、自分が人として成熟していくプロセスそのものが目的になっていくのだ。

よく、一つの活動を10年以上続けている人が「好きだから」とだけ言うのは、結果重視のパラダイムがプロセス重視のパラダイムへとシフトしているからではないかと思う。結果だけを評価せず、ただ夢中で創造や試行錯誤をしている時間が自分にとって本物だ、という確信。実感に根ざしているそれは、外からの評価にも、環境の変化にも簡単には揺るがない。

今回の参加者の中にも、そういう人たちがいた。
ある人は、映画祭の運営を10年近く続けている。理由を尋ねると、答えはいたってシンプルで「映画が好きだから」。地域振興や社会的意義といった立派な理由の手前に、まず映画そのものへの愛情がある。
もう一人、大学で教える傍ら、地域に伝わる独楽(こま)文化を守り続けている人もいた。この人の動機も同じだった。「好きだから」。
どちらの活動も、周囲からは高く評価され、地域にとって意味のある取り組みとして認識されている。しかし本人たちの言葉を聞く限り、その原動力は評価よりもずっと手前にある、ただの「好き」という感情だった。

ただし、活動に伴う動機はずっと維持できるわけではない。地域活動でも、内発的な動機で始めたことが、いつの間にか義務感に変わることがある。関係者が増え、影響範囲が広がり、それらの期待に応えようとするうちに、プロセスへの喜びが失われる。そして、結果が気になる強迫観念にかられて動機の逆流が静かに始まる。

地域のようなカオスの中で活動を続けることは、こうした動機の揺れとつき合いながら自分を保っていく選択の連続でもある。企業組織のような整った環境では表出しにくい、個人の動機や主体性な意思の強さは、むしろ「枠」のない混乱の中でこそ引き出されるのではないかと思っている。