デジタルとリアルの相克を超え、現場の豊かな「暗黙知」を強みに

三好:もともと日本企業はダイナミック・ケイパビリティを持っていたということですが、ニューノーマルといわれるこれからの時代に、日本企業が競争優位性を持ち続けるためには、何が課題になると思われますか。

菊澤:一つは、デジタル化との関係ですね。世界を見渡しても、日本のデジタル化が遅れていることは間違いないと思います。ただし、そこにはデジタル化の進展によって生み出される分断社会化をいかに回避していくか、というもう一つの課題があります。それを踏まえた上で、デジタル化がまさにダイナミック・ケイパビリティを発揮しやすい環境をつくる、というふうに考えたほうがいいと思います。
せっかくものづくり時代に生かしてきた日本的な協働関係が、デジタル空間ではできていないんです。一人一台PCで仕事をするようになるとタコツボ化していく。チームワークができなくなるのは大きな損失です。デジタルの世界でも、かつてのようにスクラムを組んで領域を超えて議論して、ものづくりやデザインをしていくほうがいい。でも、それができていないんです、今の日本は。 

三好:私たちが手がける組織開発は組織を対象にしていますが、もともと組織というのは協働のためのシステムで、その協働のあり方を追究していくことが組織開発かなと。今みたいなヒエラルキー型の組織は19世紀、20世紀の産物で、その形態なりの協働のあり方があります。それがデジタル時代になると、みんなが違う場所にバラバラにいて、ネットで仕事をシェアしながら協働する。だけど、そこには外してはいけない、一緒になってやっているというような感覚、リアルの場面も必要だと思っています。私たちがやっている組織開発でも、オンラインコミュニケーションをベースにしたテレワークのような働き方、あるいはオフィスワークも混在する多様な働き方に変わっていくとき、組織、すなわち協働のあり方をどのように変えていくのか、どう最適化していくかが新たな課題だと思っているんです。

菊澤:そうですね。もう一つ、私がデジタル化との関係で気にしているのは、デジタル化の極限であるデジタルツインという技術ですね。これは、現実の工場をサイバー空間で双子のように再現(デジタルツイン)し、それを最適化し、それを現実の工場に適用して現場を変えていく。環境が変化すると、それに関係して得た新しいデータのもとに、再びサイバー空間上でデジタルツインを最適化し、それを現実の工場に応用するというサイクルで現場を改善する技術です。
理論上では、これによって環境の変化に対応でき、効率的でコスト削減などのメリットも大きいのですが、ドイツのシーメンスのように欧米企業のデジタルツインの考え方は、究極的には人間を排除することになります。つまり、サイバー空間上の工場(デジタルツイン)は容易に最適化できますが、これを現実の工場に応用する場合、欧米型組織では職務に張り付いている人間がその変化に抵抗するので、現実の工場を変化させることが難しいんです。そこで、現実の工場から人間を排除してロボットで代替しようとするわけです。
このように、サイバー空間上の工場とロボット化された現実の工場での「知」がすべて形式知になります。このような形式知の世界では、ダイナミック・ケイパビリティは必要ないんです。通常能力であるオーディナリー・ケイパビリティを精緻化し正確化するだけなので、イノベーションは起こらないように思います。
これに対して、日本の日立などが展開しようとしているデジタルツイン技術は現場の人間を排除するのではなく、あくまでも人間を補助しようとする考えです。つまり、現場の人間がもつ暗黙知を形式知に変えてサイバー空間上の工場を最適化する。そして、これを現実の工場に応用して現場を改善させる。そこで、再び人間の暗黙知が蓄積され、これを形式知に変えてデジタルツインをさらに最適化する。このような人間の暗黙知を取り込むデジタルツイン技術のもとでは、ダイナミック・ケイパビリティが発揮しやすく、イノベーションも起こりやすいように思います。そして、このような技術を利用する場合、柔らかい日本的な組織が役に立つのです。 

三好:デジタル・トランスフォーメーションでデジタル化がどんどん進んでいく一方で、やはり人間が持っているリアル感とか、暗黙知的なものを創造的な仕事にどう生かすかというような観点が必要ですね。

菊澤:必要なんです、暗黙知が。それを仕事に取り込まなくてはいけないんです。現実の仕事の現場では、想定できない暗黙知がたくさん出てきます。それを形式知化して組織知として活用していかないと、創造的な会社にはならないと思います。まさに、野中先生のSECIモデルですけど、デジタル化と引き換えにそういうものをなくしてはいけないと、特に日本企業に対してはそう思います。
そもそも、暗黙知を形式知へと移行できるかという疑問がありますが、移行できる可能性があります。たとえば、暗黙知の典型として自転車の乗り方があります。それは、言葉で説明することが難しい知識です。ところが、最近は自転車に乗れるロボットが出現しています。これは、まさに暗黙知を形式知へと移行した事例だと思います。 

ダイナミック・ケイパビリティのかなめとなるセンシング能力

三好:ダイナミック・ケイパビリティ論が欧米では注目を浴びていますが、どうやって企業がその自己変革能力を高めていくのか、いかに古いオーディナリー・ケイパビリティから新しいオーディナリー・ケイパビリティをつくるのか、といった具体的な方法論についてはあまり語られていないように思います。日本企業が意識しておきたい能力のポイントはありますか。

菊澤:確かに、具体的な方法論についてはそこまで議論はされてないと思いますね。
これは私の見解ですが、最初にお話しした3つの能力の中でも、とくに大事なのはセンシ
ング(感知)ですね。いかにして変化をセンシングするか。経済学的にいうと、環境の変化に対して自分たちのリソース(資産)がどれだけ有効利用されているか、変化した環境と既存の資産利用状況とのズレが機会費用なのですが、そのズレの大きさをどのくらい感知できるかが大きな能力の差なんですね。そのズレが大きくて、今は多くの機会や利益を失っている状態にあるということが感知できたら、それを小さくするために自己変革が必要になってきます。その変革能力こそがダイナミック・ケイパビリティなんです。
ただし、変革しようとすると、必ず会社内には抵抗勢力がいて、その調整にはいろんな手間がかかるということ、つまり多大な取引コストが発生します。このとき、この取引コストよりも機会費用のほうが高いんだという認識をトップができるか、あるいは現場が認識してトップを説得できるか、そういう戦いになると思います。
この機会費用を高く認識できるかどうかがポイントになるわけですが、それは自己批判的であるかどうかにかかわってきます。成功体験のワナに陥っている組織では、大抵、環境が変化しても現状に満足し、自己正当化するので、機会費用を高く認識できません。そうすると、抵抗勢力に対する取引コストのほうが大きくなるので、たとえ環境が変化していても動かないほうが合理的だという不条理に陥ってしまうのです。

三好:そうした経営者のセンシング能力を高めようというときに、環境変化をキャッチするためのプロセスとか、そこから事業化につなげていくプロセスとか、一連のプロセスみたいなものがあってルーティン化できるとすれば、天才的な経営者じゃなくても、ある程度のセンシング能力は高まるのでしょうか。
たとえば、IBMのルイス・ガースナーが経営者育成のために、いろいろな事業単位で新規事業を生み出すための特別なプロジェクトみたいなことをやったりとか、そういうセンシング力を高めるような訓練をしていたというのがありますけど。 

菊澤:可能性はありますね。先ほど言ったように、トップの人が自己批判的で、そういう機会があれば。自分の限界、認知の限界を超えていけるような仕組みのようなものというか。
大事なのは、一人の人間が認知できる範囲は限定的であるということをちゃんと理解しているかどうかです。経営トップも自らが「完全」ではないことを自覚し、いつもどこかに問題はないかという批判的な態度でいて、新しい問題を見つけたら、それを解決することで少しでも進歩しようという、そういう考え方が必要なんだということです。それが、科学哲学者であるカール・ポパーの言う「批判的合理的精神」です。いつも自分や現状を正当化しないように、どこかズレているんじゃないかというクリティカルな精神が重要になると思っています。
それは、結局、文化なんですよね。自己正当化する傲慢な文化と、内外の批判を誠実に聞こうという自己批判的な文化に関係してきます。 

三好:もうひとつセンシングに関してですが、データにたくさん触れることによって高まるという考え方もあるように思いますが、それに対してはどうお考えですか。

菊澤:データについては気をつけなくてはいけないことが2つあると思います。データというのは形式知なので、データには出てこないことも感知し認識する能力も重要です。もう一つは、データ至上主義になってしまうと、イノベーションが起こらないということです。
新しいことをする場合、そもそもデータなどありません。それゆえ、データ至上主義の経営では、新規事業はことごとくつぶされます。新規事業を行なうには、直感を働かせ、最後は好きか嫌いか、正しいかどうかといった主観的な価値判断が必要となります。もし、ある新規事業を直観的に良いあるいは正しいと価値判断すれば、では次にどうすべきか、理性がわれわれに実践を要求してきます。このような価値判断にもとづく実践はきわめて直観的で主観的ですので、その責任をとる覚悟が必要です。このような責任をともなう行動をしないと、イノベーションは生まれません。

三好:センシングであって、アナライジングじゃないですからね。最近、経営学の中でも経営者の勘みたいなものに関心が向けられているようです。センシングに必要な勘を磨くとか、感じる機会をもっとつくることが必要なんでしょうね。 
私たちも役員のチーム経営を提唱していますが、その前提としてあるのは、経営者にも認知の限界があって、一人だけに意思決定を任せておくとリスクが大きいということなんです。特に日本企業の多くの場合は、アメリカのGAFAみたいな企業家やプロフェッショナルな経営者というよりは、社員からずっと上がっていった人たちが経営トップですから、プロ経営者と比べると能力に差があります。そこをチームでお互いに補完しながら経営していくことの必要性を言っているんです。センシングについても、経営チームでどう環境の変化をセンシングするか、センシングで得た情報をどう解釈するか、どう取捨選択するかみたいなこともルーティン化できたら、経営能力も高まるのではないかと考えています。